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さて、高校生活。

実家の川越から、東京は小平市というところにありました。
まぁ、通うのが一苦労でした。

最寄りの駅までは自転車で10~15分くらい。
そこから東武東上線で2駅。
で、東武と西武は仲悪いと昔から有名で(汗)、東武東上線に川越市駅と川越駅というのがありまして、ここから西武線の本川越駅に乗り換えるのに、どちらの駅からも10~15分くらい徒歩で移動しなければならないのです(汗)

私は川越市駅から本川越駅まで徒歩で毎日10分くらいかけて移動してました。
で、そこから、電車で30~40分くらい移動。
で、高校の最寄りの駅から徒歩で10~15分くらい。。

トータルで1時間半くらいはかけて毎日通っていました。

まぁ、通学になれるのも大変でしたね(笑)
で、高校1年生は部活動から解放されました。
小学校と中学校は隣同士だったため、生徒はほぼそのまま移動。つまり、9年間は知った顔の中で生活をしていました。

ところが、高校時代は同じ中学校から1人だけ、一緒に通うことになった友達がいましたが、この友達はサッカー部に入っていましたので、朝会うことはあまりありませんでした。

高校生活は全く知らない人同士の中で、部活動も入らずに淡々と、中学時代のロボットのような生活を1年間送りました。
友達も何人かはできましたが、そこまで深くかかわることもなく。。

で、2年生に進級するとその数人の友達の1人が他のクラスに移動した先で知り合った、演劇部の人の手伝いに言っていると連絡があり、本番だけ見に行くことにしました。
そこで、初めて?演劇を見た私は感激して、その場で入部することにしました。

というのも、2年生になり、高校生活にもだいぶ慣れてきており、「このまま終わるのもねー」という話を友達ともしていたところだったので丁度いいきっかけになったのです。

で、高校2年の6月に演劇部に入り次の本番は10月だったかと思います。
そこに向けて夏休み、台本決めや役者スタッフの決定を行いました。
先の演劇部のお芝居を見て入部した人間が私以外に何人もおり、その中で私だけが役者として抜擢されました。

このとき、初めて役者として舞台に立つわけですが、それまであまり感情を表に出すことのない自分としても面白味のない人間から、何かの役を演じるという仮モノを着ることで、逆に自分自身の感情のはけ口として存分に自分自身を表現できるようになりました。

今考えると、人間は何かしら猫を被っているのでしょうが、この当時の私はかぶる猫がないので、自分自身をどう表現したら良いのか良く分からずに、おとなしくしていたのかもしれません。

演劇部でいろいろな役を演じることで、自分自身の表現方法を学んでいったのかもしれません。
それは役者としての役、だけでなくたとえば、演出とか、舞台監督とか。
いろいろな立場に立つことでその立場の人間はどうあるべきか?
みたいなものをつくりあげていく、幅が広がったというべきか?

ともかく、この演劇部にはいったことで、急激に自分自身、人間味が出てきたな(笑)と思います。。

この後、2年の後期では学級委員もしました。
まわりの人間がどうした?という目で見ていましたが、中学時代では当たり前の行動が、ここではおとなしい人間がいきなり学級委員になるなんて!という感じで、まわりを見ている自分の方が面白かったですね(笑)

高校3年になると通常は受験体制に入りますが、もともと、この高校、大学とエスカレーターで高校3年生とはいってもそこまでまわりが受験受験とはならない高校でしたので、演劇部が3年の秋の大会で終わるまではずっと演劇生活をしていました。

で、同期の仲間たちで(どうせ暇だったので)卒業生だけで公演をしようと卒業公演を行った上で高校を卒業しました。

学業の方はと言いますと、1年生の時は中学からの勉強方式をそのまま継続したので、400人中50番以内?には入ってました。
で、高校2年からはどんどん下降していきます(笑)

最終的に高校3年の終わりくらいには400人中350番くらいだったかと思います(笑)。

人間的には大きく広がりを持った高校生活ではありましたが、代わりに勉学の方は急降下。。

そんな楽しい高校時代でしたね(笑)
この広がった裾野が、さらに広がりを見せていく大学時代。
で、そのすそ野が落ち込む社会人時代。。

ともかくも、いろいろあった高校時代を過ごし、大学は八王子の地へと通うことになります。

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